中津居館跡一括出土銭

中津居館跡の確認調査の際に出土した一括出土銭である。備前甕に入っていた状態で約50,000枚の銭が出土した。銭の出土量としては現在、県内第二位となる。

甕内に納められていた銭貨については、その多くを97枚でわら紐に通してまとめた緡銭(びんせん)をさらにまとめて、十貫文(銭10,000枚相当)や八貫文(銭8,000枚相当)と高額の流通単位に仕分けられて菰に巻かれて収納されていた。このほか一貫文(銭1,000枚相当)でまとめられているものも確認されている。

銭の大量埋納については中津居館跡の遺跡の性格も含めて経済的備蓄の側面が強いと考えられる。陶器製容器に納められた一括出土銭は地鎮などの祭祀的な埋納や戦乱等による私財の隠匿が想定されがちであるが、中津居館跡の一括出土銭はこうした性格を有さず、経済的性格が強い資料である。また、高額の流通単位にまとめられ菰で梱包された銭は中世の手形である割符(さいふ)に関係しているものと考えられる。割符には十貫文の定額が多く、ほかには五貫文の「半割符」が見られ、中津居館跡出土一括出土銭は十貫文でまとめられた銭が2組確認されており、割符という金融的な行為の実情も反映した出土状況であり、中津居館跡一括出土銭の出土状況が、中世の商取引のあり方を示す資料としても、貴重である。

下の神楽

毎年4月初旬、下の集落内である愛宕神社の境内で奉納されるこの神楽は、室町時代以降に畿内で発生し、西進して伝えられたという、錦川対岸の「岩国行波の神舞」と同系統で、これを伝えた社家(三上家)には、慶長11年(1606)の記録が現存する。

同家の記録によれば、明治3年(1870)9月の年限神楽は社家によって奉納されているが、明治7年11月には里神楽として奉納されている。

以来この神楽は、明治、大正を経て昭和28年11月まで舞われて来たが、戦争や災害等により一時中断、昭和55年4月再興された。

荘厳(そうごん)・六色幸文祭(ろくしきこうぶんさい)・諸神勧請(しょしんかんじょう)・注連灑水(ちゅうれんしゃすい)・三宝鬼人(さんぽうきじん)・荒霊豊鎮(こうれいぶちん)・弓箭将軍(きゅうせんしょうぐん)・眞榊対応内外(まさかきたいおうないがい)・日本記(にほんぎ)・愛宕八幡(あたごはちまん)・五龍地鎮(ごりゅうじちん)・天津岩座(あまついわざ)の12座の他、湯立(ゆだて)・火鎮(ひしずめ)が行われる。

古式をよく伝え、信仰・芸能史上貴重である。

千体仏

全長7.5~22.6cm程度の小さな木質の仏像で、795体と多数残っていることから千体仏と呼ばれているとみられる。保存状態は概ね良好である。

正徳5年(1715)ごろ静間彦右衛門たちの篤い信仰と悲願により、桂雲寺に寄進されたものと伝えられている。この千体仏は、信仰の対象物であって、信者が寺に詣でて、法要仏事を営む際、お堂の中にある千体仏の中から亡き人の顔に似た仏像を選び出し、これを本堂に移し、位牌とともに仏壇に飾り、読経をお願いし、帰りに再び元の位置に納めて退出したと伝えられており、民俗資料としての価値が高いといえる。

柱野古宿にかつてあった桂雲寺は錦見の大円寺の末寺といわれ、正徳5年に堂宇を建立し、享保6年(1721)に寺号を申請している。開基は静間彦右衛門と言われている。

白崎八幡宮の御神殿棟札

棟札の寸法は、横14.5㎝、縦137.0㎝、厚さ2.0㎝、材質はヒノキである。棟札の末尾に「文亀三年癸亥四月二十八日 大工 平信家 願主 弘中右衛門尉源弘信 法名源忍同嫡男興輔」とあり、文亀三年(1503)に弘中弘信とその嫡男である興輔が願主となり、社殿を造営した際の棟札である。

棟札には白崎八幡宮の縁起をはじめ、清縄氏、弘中氏に関する歴史資料とともに、当社再建の事情と本社の興隆功徳などの記述もあり、岩国の中世を知るための史料としても重要である。

JR西岩国駅駅舎

昭和4年(1929)4月、岩徳線の一部開通にともない、岩国駅として開業した。昭和17年(1942)に麻里布駅を岩国駅と改称した際に、西岩国駅に改称した。

木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺、外壁モルタル仕上げで、正面入口上部に設けられた、アーチ窓と柱形(ピラスター)からなる表現派風の大きな切妻と、錦帯橋をイメージさせる5連アーチの入口車寄に特色がある。

水西書院

旧岩国藩主吉川家の新邸が完成するまでの間利用していた仮住居であり、井上馨や皇室関係者を迎えたこともある由緒ある建物である。

明治19年に建設され、明治21年吉川邸完成後は吉川家の接客所としての役割を担った。

昭和25年頃に岩国市の所有となり、現在は貸室や集会所などとして活用されている。

1階は15畳の座敷2室と畳敷の縁が廻り、2階は30畳の大広間に板敷の縁を廻らせて、座敷を中心とした構成をとっている。北に正面を向け、城山や現在、錦川の土手で隠れて見えない錦帯橋も河原の向こうに見渡すことのできた風流な邸宅である。

岩国行波の神舞

この神舞は、室町時代以後、京都地方において発生し、西進して当地方に伝えられたといわれているが、一説によれば荒神神楽で豊後国(現在の大分県)から大島郡を経て瀬戸内の山間を北上したものの一つともいわれている。もともと、神官が主体の社人神楽であったが、明治維新の世襲制度の廃止により里人に伝授されたものである。行波における神舞の奉納は1791年から始まり7年目ごと絶えることもなく今日に伝わっている。

演目は、荘厳(そうごん)・六識幸文祭(ろくしきこうぶんさい)・諸神勧請(しょしんかんじょう)・注連灑水(ちゅうれんしゃすい)・荒霊武鎮(こうれいぶちん)・真榊対応内外(まさかきたいおうないぎ)・日本紀(にほんぎ)・天津岩座(あまついわと)・弓箭将軍(ゆみやしょうぐん)・三宝鬼神(さんぽうきじん)・五龍地鎮(ごりゅうじちん)・愛宕八幡(あたごはちまん)の12座からなる。また、毎年10月中旬には荒玉社境内で演目の一部を奉納する。

7年目ごとの神舞年には、河川敷に四間四方の神殿を組み、前夜に湯立(ゆだて)、火鎮(ひおさめ)および一部種目を奉納し、当日は早朝から12座を演ずるほか八関(はっせき)を奉納する。これに要する時間は15時間にも及ぶ。

この神楽は、古式をよく守り、その形態を変えることなく伝承されてきた点で、全国でも貴重である。

岩国市楠町一丁目のクスノキ巨樹群

錦川が今津川と門前川に分かれる三角州の頂点に当る部分の堤塘敷及び河川敷に15本のクスノキが群生している。最も大きいもので、目通り5.65m、高さ30mに達する。おおむね目通り4~5mのものが多く、樹齢も300年を越えると思われる。このようなクスノキの巨樹が群生している例は県下でも稀に見られるものである。

万治2年(1659)に当時の領主吉川広正(1601~1666)が隠居のため別邸を中津(現在の楠町1丁目)に造営することとし、翌3年土手の石垣工事から着手、寛文元年(1661)新邸は完成し、広正はこれに移住した。

三角州頂部の内土手と外石垣の間にクスノキを植えたのは、この万治の堤防改修の時かその後まもなくと考えられる。また延宝4年(1676)中津の庄屋が植えたという伝承もある。

通津のイヌマキ巨樹

鉾八幡宮の末社である大歳神社の祠の前にあり、目通り約3.8m、高さ約16mという巨樹である。樹幹は縦に溝のある成長をし、その断面は凹凸になっている。樹勢は旺盛で枝を広く四方に張り、樹姿は整正である。樹齢は350年といわれるが明らかでない。イヌマキは雌雄異種の植物であるが、本樹は雄樹で、単木としては県下最大のものである。

この樹には、数本のノウゼンカズラの大茎がよじのぼっており、大形朱色の花をつける。このノウゼンカズラは中国原産であるが、このような大茎は稀である。

大歳神社の境内地は、周囲をハス田で囲まれた平坦地で、樹木はこの樹の他にはなく、自然のままよく保存されている。

岩国市二鹿のシャクナゲ群生地

ツツジ科・シャクナゲ属の常緑低木で、本州、四国、九州の山地に自生する。幹は直立のものは少なく、根元から十数本の枝に分かれて株を成す。幹の高さはおおむね2m程度、大きいもので4mを越えるものもある。葉は革質で太い葉柄をもち、長楕円形を呈する。表面は濃緑色で滑らか、裏面は赤褐色である。開花は5月上旬。色は淡紅色と白色の二種類ある。
群生地は、所有者宅背後の山(標高300m)にあり、特に北面の斜面(傾斜約40度)のものがよく生育している。株の数は2000本以上を数えることが出来るが、そのうち高さ5mを越えるものが約60株みられる。

松巌院庭園

藤生の卜院(ぼくいん)の地にある松巌院は、臨済宗天龍寺末であるが現在は単立で鍾秀山と号する。安政6年(1859)の今北洪川筆「松濤軒記」(しょうとうけんき)に本庭が月溪(天溪)和尚による作庭であると記されている。

月溪和尚は中谷月溪と称し、文久2年(1862)に85歳でこの世を去っている。

山門付近から本堂前にかけ、スギ苔が一面に敷きつめられ、その中にソテツの寄植えがある他は石組らしいものはない。前方は瀬戸内海が眼下に見下ろせ、その為に土塀を低くして眺望をよくしている。

本堂の南側に隠寮、松濤軒が建つ。一種の隠居部屋であるが、茶室でもある。この南面に広がるのが中心の景観である。裏山の斜面を利用し、築山を取り巻くように細長い池泉を穿った池泉観賞式庭園である。

庭園構成の中心は滝石組であるが、松濤軒から滝を望むことはできず、また本堂書院からも視界に入らない。庭に降りて池畔に立たなければ主景が望めないというのは、特殊な地割であり、回遊式の要素ももっている。その滝石組は、3石で水落石を形成して120㎝の高さを持つ。添石は、斜面に露出する岩盤をうまく利用し生かして組んでいる。右側には90㎝高の立石があって、石組の中心となっている。滝には豊かな水が落ち、流水式に蛇行しながら池泉へと注がれる。池泉には4か所に石橋が架かり、園内を回遊散策できる。

作庭時期、作者ともに明確な庭園として貴重である。

松濤軒記

この記の書体は、江戸時代に流行した御家流のものとは違っており、室町時代五山文学僧の伝統的な書の格調を伝えるものである。

松濤軒は松巌院境内にある隠寮(茶席)で、この南面に県指定となっている庭園がある。

1859年の「松濤軒記」には、庭園がその庭が天渓翁(てんけいおう)による作庭であると伝えており、記述から天保15年(1844)以前には松濤軒および庭園が造られていたと考えられる。

「松濤軒記」は、作庭記録として、年代や作庭者がわかるものであり、庭園史でも貴重な資料である。

銅製梵鐘

銅鋳の梵鐘で釣手は双龍頭を鋳出し、頂部は宝珠形になっている。鐘身は上部外面に乳を鋳出す。法量は鐘身の高さ86.0㎝、釣手の高さ20.0㎝、口の外径65.5㎝、口部の厚さ6.0㎝である。

鐘身に「貞治五年丙午十月十五日大願主比丘尼慧通大工沙門釈阿」と陰刻の銘があり、願主、造主の名及び紀年銘がある。願主である比丘尼慧通(びくにえつう)は、岩国地域の領主であった弘中良兼(ひろなかよしかね)の妻とされる人物である。紀年銘の貞治5年(1366)は北朝の年号で、大内弘世(おおうちひろよ)が貞治元年(1363)に南朝側から北朝側に鞍替えし、室町幕府二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)より長門国、周防国の守護職を認められたことから、以降、周防国内では北朝年号を使用することになった。梵鐘は、南北朝時代のものであり、当時の時代的特徴を表わしている点からも貴重なものである。

釈迦牟尼如来座像・阿難・迦葉と十六羅漢

本堂の正面に釈迦牟尼如来座像(しゃかむににょらいざぞう)、その両側に釈迦の十大弟子である阿難(アーナンダ)、迦葉(マハーカーシヤパ)の立像、左右の棚には釈迦の弟子のなかで優秀な16人のである大阿羅漢(十六羅漢)の像を配している。

釈迦牟尼如来座像は高さ37㎝、阿難と迦葉の立像は高さ59㎝、十六羅漢像は45~46㎝の大きさであり、台座は岩座となっている。

作者は不明であるが、釈迦如来座像以外の18体は同一人の作で、6色の極彩色が施され、大和絵の流れを受けた江戸時代の手法である。

このような像は、市内では龍雲寺のほか、福田寺(錦町)のほかに安置されている寺院はなく、希少である。

木造力士像(蛙股)

ケヤキ造りで高さ32㎝、幅32㎝、重さ5㎏をはかる。岩国出身の工人、出目上満(でめじょうまん)作で像の背面に作者の墨書銘がある。力士像は梁や桁の上に置かれる部材、蛙股(かえるまた)として作られており、装飾として用いられ、金正院の向拝として掲げられている。金正院は、元々観音堂といい、享和から文化年間(1801~17)に改築が行われ、その際に奉納されたものである。

この像は、特異な意匠を有しており、その彫刻技術は力強さがあり、非凡なものである。作者の出目上満は本名を福屋弥惣左衛門(ふくややそうざえもん)といい、千石原の生まれで藩の作事組に属した工人で弘化2年(1845)に没している。近世岩国の工人の作品として貴重である。

木造薬師如来座像

総丈150㎝、膝張87㎝。製作は雲慶仏師と伝えられている。年代としては室町時代初期を下らないと推定される。巻子仕立て。像の右手は施無畏(せむい)印、左手は与願(よがん)印で薬壺(やっこ)を持つ。

伝承によれば、元和2年(1616)頃、この付近の海上に漂流していた像を堂宇に納めたと伝えられる。また、吉川広家がこの像に祈願して干拓工事を成功させた御礼として御鉢米1石6斗5升を贈り、伽藍を改めたと伝えられている。

太刀銘【表】防州白崎八幡宮御剣願主源兼胤【裏】貞和三年丁亥十月日守吉作 付 太刀(同銘無焼刃)一口

鎬造りで、庵棟(いおりみね 刀の背となる頂点が鋭角になるようにした形状)で仕上げられており、刃部の地肌が、よく鍛えられている太刀である。長さ83.0㎝、反りの中心点が刀身の中ほどにある高い中反り で2.6㎝ある。身幅が広く、鎬の幅が狭いもので切先は猪首(いくび)となり、ふくらと呼ばれる刃先部は丸味をもっている。

この太刀は白崎八幡宮創建の前年にあたる貞和3年(1347)の10月に刀工の守吉によって製作され、同銘の無焼刃のものが一口あり、付(つけたり)となっている。

刀工の守吉は備前畠田(現在の岡山県備前市畠田)の刀工で、北朝の貞和・貞治年間(1345-68)頃に活躍した。奉納者である願主源兼胤は、弘中兼胤のことであり、白崎八幡宮を創建した人物である。弘中氏は中世において岩国庄、岩国本庄を支配していた領主であった。

太刀 銘 安吉

長さ70.6㎝の太刀。刀身は、鎬造、庵棟、鍛板目、刃文は湾れごころの乱れとなっている。作者である刀工安吉は南北朝時代、正平年間(1346~70)の人物で筑前国(福岡県)の刀工である筑前左(筑前左衛門安吉)の子とされる。

安吉作の太刀は例が少ないので、この作品はその点から珍しいと言われている。