祈年宮扁額 付 祈年宮記

山代祈祷所として元禄年間に建てられた祈年宮(伊勢春日白鳥神祠)の社殿に掲げられていた扁額である。建立当初のものではないが文政七年に製作されたものである。

扁額の法量は長さ75.5㎝、幅55.5㎝である。素材はケヤキとみられる。表面には「祈年宮」と文字の外側を彫り込み文字を浮き出せている。文字は胡粉を用いて白色で彩色し、縁は四方を唐草文で彫りだし、黒漆で着色している。

裏面には「奉納 文政七甲申正月吉辰 防州玖珂郡山代御茶屋役人中 草場謙謹書」の墨書が記されている。文政七年の正月に山代御茶屋(宰判)の役人達がこの扁額を奉納したことを草場謙が書いたとあり、「祈年宮」の揮毫は草場謙によるものである。草場謙は晋水の号をもち、萩明倫館の教授であった人物である。

付の祈年宮記については、木の板に祈年宮の縁起を墨書したもので、法量は縦37.4㎝、横115.0㎝、厚さ1.9㎝である。書は文化元年(1804)に山代宰判楮植付仕組方並勘場検使であった有田伝左衛門(祚胤)が記したものである。

これらの資料は岩国市域とくに北部の山代地域の近世の製紙業とこれにまつわる民間信仰のあり方、そして萩藩の宗教政策といったことを考える上でも重要な資料である。

木造地蔵菩薩半跏像

像高66.5㎝(頂上から左足先まで)、頂上~顎14.0㎝、面巾12.0㎝、膝高8.7㎝(右足)、連座高17.5㎝、頭光直径36.0㎝、面奥12.5㎝、張り26.7㎝、台座総高40.5㎝。

ヒノキ材の一本造。頭体部を1材で造り、膝前及び両手、左足先を矧ぎつけている。頭は円頂で、白毫相をあらわす。(白毫は水晶を嵌入)彫眼、耳朶は環とし、三道を刻む。
右手は屈臂して斜め前方にたて、5指を握り、錫杖を執る。左手は屈臂し、掌を仰いで、そこに宝珠を捧持する。法衣を通肩に着け、左足を半跏(踏み下げ)して蓮座上にすわる。

台座の下方は四角で、框があり、その上に敷茄子を置き、その上方に蓮華座を置く。この蓮華の蓮弁は魚鱗葺である。下方の框のまわりに木の根でつくった雲形を置く。

頭光は宝珠輪光で、月輪光の上3か所に宝珠を付す。但し、この頭光及び蓮座の下方は後世の作と考える。

石造五重層塔

安山岩製で、低平な基壇の上に背の高い軸があり、その上に屋根と軸部を一石で掘った笠が五つ乗っている。
上方にあったと思われる相輪は失われている。5つの笠は上方にゆくにつれて大きさを小さくしている。
軒は厚さも充分であり、両端にいって少し厚みをまし上方にゆるやかに反っている。軸部には正面中央部に蓮華を刻し、その上の月輪のなかにタラーク(宝生如来)梵字がある。
この面に縦に3行、下記の刻銘がある。
刻銘には天文15年(1546)の紀年銘が刻まれている。軸部にはこのタラークに向かって右の面にウーン(阿閦如来)、左面にキリーク(阿弥陀如来)背面にアク(不空成就如来)の金剛界四仏の梵字が彫ってある。

山口県内の石造の層塔のなかでも古い部類であり、貴重である。

山代本谷神楽舞

山代神楽は、岩国市北部の山代地方に古くから伝わる神楽の総称である。
山代本谷神楽舞は、本谷地区(岩国市本郷町)で古くから伝承されてきたもので、源流は出雲の流れをくむ安芸十二神祗系神楽(あきじゅうにじんぎけいかぐら)に「五行」を骨子とした備後神楽が強く影響していると考えられ、その起源は享保年間(1716~36)に遡るといわれるが、言い伝えによると安政年間(1855~60)に山代一帯に疫病が流行した際、平癒祈願として奉納されたとされ、それ以来100年以上の間、毎年10月の第2土曜日に地区の氏神様である河内神社で奉納神楽として舞い続けられてきた。

木造薬師如来立像

座高158.8㎝。ヒノキ材、寄木造りの薬師如来立像である。
建立寺がかつて安養院といった頃の本尊であり、建立寺となってからは薬師堂に安置されてきた。

頭は螺髪(らほつ)を彫り出し、肉髻珠(にくけいじゅ)、白毫相(びゃくごうそう)があらわされ、耳朶(みみたぶ)は環状、首には三道が表現されている。
衲衣(のうい)を両肩からゆるやかに垂らし、両足をそろえて台座に立つ。右腕は肘を曲げ、掌を前にして指をゆるやかに開き、左腕は自然に下ろし、掌に薬壺を持っている。
全体の肉取が良く、また衣紋が浅いことから平安時代後期の製作と推定される。