紺糸威肩紅腹巻 付 大袖

胴の高さ28.2㎝、胴廻り100.2㎝、草摺(くさずり=胴の下に下がっていて、足の太股を守る部分)の高さ30.0㎝の鎧腹巻。
小札(こざね)は、黒漆を盛り上げて塗った本小札で、紅・紺の色糸を使って、毛を返したように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
腹巻はもともと装束の下に着けるものであったが、この腹巻には黒漆を盛り上げて塗った本小札を紅糸で威した高さ34.2㎝、幅34.3㎝(上)~35.4㎝(下)の大袖が付いている。

室町時代中期の特色豊かな優れたものである。

紙本墨画淡彩湖亭春望図

図の上部には「湖亭春望」と題された七言律詩が書かれており、「天與老雪」の名と「清啓」の朱文方印があるので、賛者は天與清啓(てんよせいけい)であることがわかる。関防印は「暁遠夜鶴」である。

湖亭春望図には印章、落款ともないが、雪舟筆の伝えがあり、天與清啓の賛がある。

賛を賦した天與清啓は、臨済宗大鑑派の禅僧であり、大内盛見(1377~1431、1409~25在京)、大内教弘(1420~65)父子との関係があった。享徳2年(1453)と応仁元年(1467)の二度にわたって遣明使節となっている。二度目の時は正使であり、渡明の一行の中には、別船であるが雪舟もおり親交があった。

天與清啓は、山口市源久寺所蔵の仁保弘有像にも、寛正6年(1465)8月、着賛している。湖亭春望図には、彼が渡航を前に周防に滞在していた時期(寛正6年又は7年の春か)に著賛した可能性がある。

また、狩野探幽(1602~74)により、「雪舟筆」、「自賛」の「山水」と鑑定されている。

湖亭春望図は日本の水墨画を特色づけている、淡く美しい彩色が施されており、製作時期が限定できる山水画としても重要である。

絹本着色仏国国師像

縦107.6㎝、横51.4㎝の絹地に彩色した仏国国師(1241~1316 後嵯峨天皇の第三皇子)の頂相(肖像画)。

延慶2年(1309)大内弘幸が仏国国師を開山として建立した古刹、岩国横山の臨済宗永興寺の旧蔵品で、作者は不明であるが、鎌倉の円覚寺の住持をつとめた霊山道隠(1325没)の賛があり、製作の時期が14世紀初期と考えられる山口県内では最も古い頂相で、貴重である。

付(つけたり)は、縦119.5㎝、横61.0㎝の絹地に彩色した仏国国師の頂相で、吉川家御用絵師斉藤等室(1668没 雲谷派)の筆で、黄檗宗の開祖、隠元隆琦(いんげんりゅうき)の賛がある。

岩国学校校舎

岩国学校は、明治3年(1870)岩国藩主が藩中の青少年を教育するため学制の大改革を行い、旧兵学校と文学校を公中学・公小学に組織を改めて現在地の近くに新築、翌4年2月に開校したものである。校舎は上層を教員詰所、下層を教室にした二階建てであったが、学制発布の明治5年に三階を増築した。

当初の部分はほぼ和風様式であるが、増築した三階は屋根鉄板葺きアーチ窓、ヨロイ戸付、しっくい大壁造りの洋風である。

この和洋を混淆した手法は、明治初年の教育制度の激しい変革と文明開化の気運を象徴するもので、全国に現存する明治初年の学校建築の中においても様式の特異性において他に例を見ない。昭和47年8月に解体修理を実施している。

香川家長屋門

岩国市横山二丁目に所在する岩国藩家老香川家の表門である。17世紀末、元禄年間の当主、香川正恒(かがわまさつね)のとき、大工大屋某によって建てられたものと伝える。

桁行23.29m、梁間4.85mで、屋根は入母屋造りで本瓦葺きである。正面に向かって左寄りに出入り口があり、大小の扉をしつらえている。門の左側は茶屋が設けられ、右側は三部屋に分かれ、仲間部屋、武道場(板敷)、厩に当てられていたという。

岩国市内の木造建造物として最古級のものの一つで、岩国城下町の風情を残す建物である。

吉川家文書(明治追加)32巻 付 明治追加目録1刷

紙本墨書で巻子装となっており、31巻と番外1巻の中に504点の文書が収録されている。31巻は編纂する過程で分類毎に整理されており、明治追加目録によると第一~第三が「勅諚及び叡旨」、第四が「幕府告達」、第五が「忠正忠愛二公(毛利敬親、毛利元徳)手書」、第六、第七が「長徳清(長府、徳山、清末)三公手翰」、第八~第十が「有恪公(吉川経幹)手書類」、第十一~第十四が「諸藩往復書類」、第十五が「京師変動疏状類」、第十六~第二十二が「上国応接」、第二十三、第二十四が「攘夷 停戦」、第二十五が「誓神及英人応接類」、第二十六、第二十七が「偵察情報」、第二十八~第三十一が「雑」と分類されている。番外の「口宣」は目録に記載されていない。なお、各巻に収録されている文書は原本だけではなく、写、控も混在しており、編纂の過程で内容によって取捨選択がおこなわれたものと推測される。史料は第一次四境戦争、家格問題、戊辰戦争に関するものなど明治維新期において中心的役割を担った長州藩の一支藩の状況を示す史料として貴重である。

香川家文書

香川家歴代の当主あるいはその家族にあてられた公私の文書集である。香川家は岩国藩家老職という家柄のため、藩主吉川家からの受領文書が多く、広家の書状160通のほか、広正、広嘉期のものが60通と近世初期の文書が多いのが特徴であり、近世岩国藩の状況を知る良好な史料と言える。

また、重要文化財に指定されている吉川家文書のうちの吉川家文書別集として収録されている西禅永興寺旧蔵文書、宮庄家旧蔵文書などがあるが、香川家文書はこれらと同類の文書集で、文書量においてはこれらを凌駕しているため吉川家文書を補完する意味でも貴重な史料である。

織田信長天正茶会記

桃山時代の天正元年(1573)、同2年の京都において、織田信長が催した三回の茶会の記録であり、寛永年間(1624~44)に津田江月(津田宗及の子)から岩国藩の家老香川春継の子(家景か)に贈られたと伝えられている。縦24.5㎝、横239.0㎝の巻物となっている。

筆者は津田宗及と伝えられており、書体からも天正初期に記述されたことが看取出来る。この資料は天正初年の茶会の様式を具体的に記録している点で、貴重であり、茶道史の側面からも重要である。

錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観

本文化的景観は、江戸時代の岩国城下町に由来するもので、錦川、城山、横山地区、岩国山、岩国地区から構成される。

岩国城下町は、藩主居館や諸役所、重臣の屋敷等が置かれる横山地区と、中下級の家臣屋敷や町人町等が置かれる岩国地区からなり、両地区を錦川が大きく隔てる。
これらの城下町には、護岸や水路、河川氾濫や内水氾濫に対する建造物の備え等が残されており、川と密接に関わった人々の工夫に富んだ暮らしを窺い知ることができる。

横山地区と岩国地区を繋ぐ錦帯橋(国指定名勝)は、その代表的なもので、延宝元年(1673)に当時の建築土木技術の粋を集めて架橋されたもので、その独特の構造美から、江戸時代中頃から名所として知られ、物見の賑わいにより経済的・文化的発展をもたらした。それにより、城下町の趣を伝える町並みに、木造三階建の旅館、時代の特徴を示す店舗、桜並木等の新たな景観が調和的に生み出され、現在まで良好に引き継がれている。

自然の特性を踏まえた開発が都市の個性を生み、往来の賑わいを生み、産業を育むという連関を示す独特な事例として貴重である。

旧吉川家岩国事務所

事務所、倉庫、便所の3棟からなる。事務所は、木造、寄棟造、2階建、桟瓦葺、床面積234.28㎡。倉庫は、木造、切妻造、2階建、桟瓦葺、床面積79.52㎡。便所は、木造、切妻造、平屋建、桟瓦葺、床面積14.30㎡(渡り廊下を含める)。

この建物は、昭和6年(1931)、吉川家岩国事務所として建設された。昭和45年頃から平成20年まで「岩国市青年の家」として使用され、現在は岩国徴古館の付属施設である。設計は堀口捨己(1895~1984)で、外部・内部ともに、ほぼ建設当時の姿をとどめている。

事務室の開口部のデザインや室の雰囲気などに初期の堀口の作風がよく出ていること、サッシュも含めて当初のものがよく残っていること、堀口の初期の作品で現存するのはいずれも洋風のものであるので、彼の系譜をたどる上で、特に和室研究の過程を知るうえで重要である。

この建物は、堀口が西洋建築を学んだあと、日本建築の研究を開始し、日本的なものを建築作品に反映させようと考え始めたころの作品にあたる。特に目立った建物ではないが、平面・構造が簡素明快であること、左右非相称、無装飾、素材の美の尊重など、建物全体に堀口の考えた日本的なものが現れている。

色々威腹巻 付 負櫃

岩国六代藩主吉川経永(きっかわつねなが)が岩国明珍家の祖である甲冑師明珍又ヱ門宗性に命じて、寛保2年(1740)に製作させた、華美で豪華な甲冑である。

金属類には、繊細で見事な彫刻(浮彫・透彫・毛彫・魚々子)が多く用いられている。この他、漆、糸の染色、布帛といった素材についても上品なものである。

全体的に古式に則ってはいるが、江戸期の明珍派の特色を良く伝え、当世具足的要素を加味し、取付式の弦走革を用いるなど、独創的な手法を用いた甲冑として貴重である。

 

鉄錆地百廿間筋兜鉢 銘 明珍宗家作

兜は、鉢高13.8㎝、前後径22.7㎝、左右径19㎝で、枚張は118枚である。

この筋兜は、薄い鉄板を縦に矧合せ、筋と筋との間の数が120間あって鉄鋲で平留にして形成している。表面は、錆地で腰巻を周らせた鉢で、眉庇や𩊱(しころ)など付属品はない。裏には、「明珍宗家作」と刻銘がある。作者である明珍宗家は、明珍宗家(みょうちんそうけ)の19代目で桃山時代に活躍した甲冑師である。その宗家の作品は、いずれも前後に長く脹らみをもたせて技巧的になっている。現存する筋兜では200間(京都国立博物館蔵)が最も多く、120間は明珍家や根尾家の甲冑師作に見ることができるがその多くは江戸時代の作である。そのため、この兜鉢は桃山時代の作として資料的価値が高い。

桐・九曜紋蒔絵挾箱 付 目録

大きさは横幅58.1㎝、奥行39.8㎝、高さは箱38.8㎝、蓋7.8㎝である。

挾箱は外出に際し、具足や着替用の衣服などを中に入れ、棒を通して従者にかつがせた箱で、江戸時代には定紋をつけて武家の格式を示した。

造りは印籠造りで、身に比べて蓋が浅く、垂直、水平線の組み合わせにより構成されている器形は整然として、厳正な印象を与えている。各面の対角線には鍍金桐唐草文毛彫金物をはめて、鋭さがいっそう強調され、それが蒔絵と金具の桐・九曜紋と金梨地に松・橘文蒔絵の意匠に和している。

派手な図様を器面全体に描いた蒔絵の技法などから製作期は江戸中期から後期と考えられる。保存状態も良く、加えて吉川家伝来であることも目録から判明している。

紺糸素懸威黒板札菱縫二枚胴具足

江戸時代後期の作で製作者は岩国藩の甲冑師春田家第4代の春田正栄である。特色として、眉庇(まびさし)が微塵青貝に赫銅覆輪の出眉庇であること、前立が鍍金の鍬形及び丸ニ酢漿紋となっていること、吹返し、胴の胸板、胴のうしろの押付板にも丸ニ酢漿紋をつけていること、立挙、衡胴とも上重ねになっていることが看取できる。

全体的には、菱縫いの板が金漆雛で亀甲文様となっている他随所に上級武士が着用したと思われる特色を見ることが出来るほか、全体が製作当時のままで、後世の改変もない、完全な一領である。

元々は家老職の吉川家所有の甲冑で、明治初期に吉香神社に奉納されたものである。漆の剥落等もなく、保存状態はきわめて良好である。

刀剣

刀身の長さ69cm。反り2cm。銘文は、表に「防州岩国住国俊」、裏に「昭和三十五年五月日 於長野県坂城町宮入昭平内」とある。作者国俊は、現代刀工で鍛冶名を国俊と号した藤村松太郎(1887~1965)で、宮入昭平(長野県の刀工 1913~1977)は現代刀工で人間国宝。この刀は、宮入昭平の工房において国俊が鍛錬し、昭平が焼刃入れをした合作である。両刀工の技量の高さを伺える名品で貴重な一口である。

黒韋肩白紅威大袖

この大袖は、射向(いむけ)(左手)側の大袖だけで、馬手(めて)(右手)はない。上下の幅は39㎝と35㎝で、南北朝時代の作である。作りは黒漆塗の革小札と鉄小札を一枚ずつ交互に交えて、赤、白の糸を用いて段々に威(おど)している。

中世の甲冑に付属した大袖は南北朝時代から室町時代にかけて盛んに用いられているが南北朝時代の大袖の残存例は少く貴重である。

刀剣拵付

刀身の長さ69.2㎝。反り1.5㎝。銘文は、表に「神武周防岩国藩青龍軒盛俊造之」、

裏に「文久(四)年甲子正月日」とある。文久4年(1864)に、青龍軒と称し岩国藩の刀工であった岩本清左衛門盛俊(1802-1867)作で、伯耆流居合道の始祖といわれる岩国藩片山家に伝えられてきたものである。また、鐔(つば)の作者片岡忠義は、岩国に住んだ優れた鐔工である。

刀身は、拵(こしらえ)とともに極めて良好な状態で保存されている。刀身、刀鐔(かたなつば)とも傑作で、伝来の由緒正しさと合わせて誠に貴重な存在である。郷土の刀工盛俊の傑作の一口に、同藩の鐔工の傑作が拵につくものは他に存在しないと思われる。

紺糸寄素懸威百二十二間筋兜

この兜は岩国藩家老職であった香川家に伝来するもので、高さ16.5cm、径は前後25.4cm、左右20.9cm。銘文には、「防州住藤原正晨作」とある。銘文にある防州住藤原正晨は春田正晨(はるたまさあき 1657-1738)のことである。正晨は通称を次郎三郎といい、奈良の甲冑師春田正信(はるたまさのぶ)に師事し、のちに、岩国藩の甲冑師春田家の初代となる。

兜は筋兜といわれるもので兜本体を形成する鉄板を接ぎ留める鋲を見せず、鉄板の縁を捩(あお)り立て、接ぎ目を筋状に見せたものである。筋兜の筋は春田派の兜で120間となるものは珍しい。

また、これ程多くの細い筋が入った兜を何の乱れもなく作り上げた技術は高く評価され、美術的価値も高い。

鷺神社神楽面

翁(おきな)面、抵牾(もどき)面、鬼(おに)面、姫(ひめ)面の四面で、いずれも鷺神社に江戸時代末期ごろ奉寄進された神楽面である。

作者は、岩国藩の作事組に属する工人で、出目上満(でめじょうまん 本名は福屋弥惣左衛門)といわれ、寛政12年(1800)の作が三面、弘化2年(1845)の作一面と伝えられている。

これらの面は、神楽面として彫刻技術がすぐれており、非凡さが認められる。近世岩国の工人の作であり、保存状態も良好である。

紙本着色椎尾八幡宮縁起(文明十五年書写)  付 紙本着色椎尾八幡宮縁起(貞享四年書写)

巻子仕立て。上下2巻からなる。

椎尾八幡宮は平家の家人であった岩国氏一族に関係する神社とみられ、暦応3年(1340)や永享11年(1439)の棟札には岩国氏一族の名がみられる。

縁起は文明15年(1483)に描かれて、八幡宮に奉納されたものであり、縁起の奥書(奥付)には、八幡宮が所在する河内郷の豪族とみられる行宗次郎右衛門尉(ゆきむねじろうえもんい)が願主となり、祖生郷の渡辺左近将監毘(わたなべさこんしょうげんび)に絵を描かせ、小周防白石の神代部了重(こうじろべりょうじゅう)には詞書をもらい奉納したと書かれている。このように願主、絵師、筆者の名前や時期が明らかになっているものは貴重である。

また、付の貞享4年(1687)の縁起は、文明15年のものを書写したもので、こちらも江戸時代の八幡縁起の書写の状況がわかる資料として重要である。