大乗とは利他救済の立場から広く人間全体の平等と成仏を説き、それが仏の教えの真の大道であるとする教えであり、その教えをとく経典を大乗経といい、『大般涅槃経』などの経典、二百巻を箱に納めている。制作年代、制作者等は不明であるが、巻末に永正2年(1505)、天文13年(1544)、寛政2年(1791)の三度の補修の年代が記録されており、最初の補修である永正2年より古い年代に制作されたものと思われる。
また、天文13年(1544)の補修には、深龍寺の開基となる深川将監藤原朝臣胤兼(ふかがわしょうげんふじわらあそんたねかね)の名が出ている。
祥雲寺の木造薬師如来座像ほか8躯うち7躯は、薬師如来座像を本尊とし、左に日光菩薩立像、右に月光菩薩立像が配置され、さらに日光菩薩立像の左前に増長天立像、後面に広目天立像、月光菩薩立像の右前に持国天立像、後面に多聞天立像がそれぞれ配置されて本尊を守っている。本尊木造薬師如来座像は、像高51.9㎝で平安時代末期(12世紀)の制作とされる。
本尊の台座、光背、脇侍の日光・月光菩薩は、すべて江戸時代のものである。本尊の薬師如来像、脇侍の日光・月光菩薩、四天王が揃っているのは県下でも有数であり、きわめて貴重である。
十一面千手観音座像は、寄せ木造り全面金箔張りであり、内面金箔張りの厨子に安置されている秘仏である。制作年代は、戦国時代から江戸時代初期にかけての逸品である。
地蔵菩薩立像は、江戸時代の制作で保存状態もよい逸品である。
鐘は通高93.2㎝、口径54.5㎝センチメートルの中型で一区内4段4列の乳を持ち、鐘座は2ヶ所で共に単弁の蓮華座で尖頭の細長い花弁は特色がある。銘は一区から三区の前半にわたって文明17年(1485)に刻まれた原銘が13行107字、三区の後半と四区に天文2年(1533)に刻まれた追銘が17行193字陰刻されている。
銘によると文明17年(1485)に、大工信吉が伊予国越智郡桜井郷(現今治市)の伊予国分寺のために鋳造したもので、その後、天文2年(1533)に深龍寺の開基、藤原朝臣胤兼(ふじわらのあそんたねかね)が深龍寺のためにその鐘を寄進したものである。また銘文にある藤原朝臣胤兼は、深川胤兼(ふかがわたねかね)とみられ、当時深川の地を治めていた国人と推測される。
兜は、鉢高13.8㎝、前後径22.7㎝、左右径19㎝で、枚張は118枚である。
この筋兜は、薄い鉄板を縦に矧合せ、筋と筋との間の数が120間あって鉄鋲で平留にして形成している。表面は、錆地で腰巻を周らせた鉢で、眉庇や𩊱(しころ)など付属品はない。裏には、「明珍宗家作」と刻銘がある。作者である明珍宗家は、明珍宗家(みょうちんそうけ)の19代目で桃山時代に活躍した甲冑師である。その宗家の作品は、いずれも前後に長く脹らみをもたせて技巧的になっている。現存する筋兜では200間(京都国立博物館蔵)が最も多く、120間は明珍家や根尾家の甲冑師作に見ることができるがその多くは江戸時代の作である。そのため、この兜鉢は桃山時代の作として資料的価値が高い。
銅鋳の梵鐘で釣手は双龍頭を鋳出し、頂部は宝珠形になっている。鐘身は上部外面に乳を鋳出す。法量は鐘身の高さ86.0㎝、釣手の高さ20.0㎝、口の外径65.5㎝、口部の厚さ6.0㎝である。
鐘身に「貞治五年丙午十月十五日大願主比丘尼慧通大工沙門釈阿」と陰刻の銘があり、願主、造主の名及び紀年銘がある。願主である比丘尼慧通(びくにえつう)は、岩国地域の領主であった弘中良兼(ひろなかよしかね)の妻とされる人物である。紀年銘の貞治5年(1366)は北朝の年号で、大内弘世(おおうちひろよ)が貞治元年(1363)に南朝側から北朝側に鞍替えし、室町幕府二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)より長門国、周防国の守護職を認められたことから、以降、周防国内では北朝年号を使用することになった。梵鐘は、南北朝時代のものであり、当時の時代的特徴を表わしている点からも貴重なものである。
ヒノキ材の寄木造で、像高35㎝、台座高38㎝、総高73㎝で、菩薩は獅子像の背上に足の甲を交差させ、反対側の足の太ももの上に乗せて座る、結跏趺坐(けっかふざ)というポーズをとり、右手に宝剣、左手に経巻を握っている姿であるが経巻の方は欠損している。
『防長社寺由来』では、「右本尊は文殊大士、行基菩薩作と申伝候」とあり、行基作との伝承があるが、像の技法等から室町時代の作と推定される。
災厄除けの護符や起請文に押す印の版木で、牛王文殊宝印の文字が力強く浮き彫りしてある。護符として使用する場合は携帯したり、家の出入り口に貼ったりする。
制作者の氏名・年代・由来等未詳であるが天文年間(1532~1554)に作られたと推定されている。
総丈150㎝、膝張87㎝。製作は雲慶仏師と伝えられている。年代としては室町時代初期を下らないと推定される。巻子仕立て。像の右手は施無畏(せむい)印、左手は与願(よがん)印で薬壺(やっこ)を持つ。
伝承によれば、元和2年(1616)頃、この付近の海上に漂流していた像を堂宇に納めたと伝えられる。また、吉川広家がこの像に祈願して干拓工事を成功させた御礼として御鉢米1石6斗5升を贈り、伽藍を改めたと伝えられている。
巻子仕立て。上下2巻からなる。
椎尾八幡宮は平家の家人であった岩国氏一族に関係する神社とみられ、暦応3年(1340)や永享11年(1439)の棟札には岩国氏一族の名がみられる。
縁起は文明15年(1483)に描かれて、八幡宮に奉納されたものであり、縁起の奥書(奥付)には、八幡宮が所在する河内郷の豪族とみられる行宗次郎右衛門尉(ゆきむねじろうえもんい)が願主となり、祖生郷の渡辺左近将監毘(わたなべさこんしょうげんび)に絵を描かせ、小周防白石の神代部了重(こうじろべりょうじゅう)には詞書をもらい奉納したと書かれている。このように願主、絵師、筆者の名前や時期が明らかになっているものは貴重である。
また、付の貞享4年(1687)の縁起は、文明15年のものを書写したもので、こちらも江戸時代の八幡縁起の書写の状況がわかる資料として重要である。
胴の高さ27.8㎝、胴廻り91.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の長さ24.5㎝の大きさである。小札(こざね 甲冑の部位をつくる短冊状の板)は黒漆塗の革小札と鉄小札を一枚ずつ交互に交えて、赤、白、紫の三色を用いて段々に威している。威す(おどす)とは小札の穴に糸を通すことを言い、色々糸威とは複数の色の糸で威すことを言う。
腹巻とは、軽装の防具である腹当が進化したもので、体の正面の防御だけでなく、背後に引き合わせを設けて背中にも武装を拡張したもので、南北朝時代から室町時代にかけて盛行した。
この時期のものは遺品が比較的少ないが、この腹巻は、保存状態が良好であるため貴重である。
鎬造りで、庵棟(いおりみね 刀の背となる頂点が鋭角になるようにした形状)で仕上げられており、刃部の地肌が、よく鍛えられている太刀である。長さ83.0㎝、反りの中心点が刀身の中ほどにある高い中反り で2.6㎝ある。身幅が広く、鎬の幅が狭いもので切先は猪首(いくび)となり、ふくらと呼ばれる刃先部は丸味をもっている。
この太刀は白崎八幡宮創建の前年にあたる貞和3年(1347)の10月に刀工の守吉によって製作され、同銘の無焼刃のものが一口あり、付(つけたり)となっている。
刀工の守吉は備前畠田(現在の岡山県備前市畠田)の刀工で、北朝の貞和・貞治年間(1345-68)頃に活躍した。奉納者である願主源兼胤は、弘中兼胤のことであり、白崎八幡宮を創建した人物である。弘中氏は中世において岩国庄、岩国本庄を支配していた領主であった。
長さ70.6㎝の太刀。刀身は、鎬造、庵棟、鍛板目、刃文は湾れごころの乱れとなっている。作者である刀工安吉は南北朝時代、正平年間(1346~70)の人物で筑前国(福岡県)の刀工である筑前左(筑前左衛門安吉)の子とされる。
安吉作の太刀は例が少ないので、この作品はその点から珍しいと言われている。
南北朝時代に越中国松倉郷(現在の富山県魚津市)の刀工郷義弘(ごうのよしひろ)が製作した刀である。義弘は相模国(現在の神奈川県)の刀工政宗の弟子と伝えられている。義弘の作品は銘が刻まれたものがなく、刀剣の鑑定や研磨を業とする本阿弥家によって鑑定を受けた11振が現存するのみである。その中でも、とくに優品であるのが加賀前田家伝来の「富田郷」(国宝 前田育徳会蔵)と「稲葉江」である。
「稲葉江」の名は所持者であった稲葉勘右衛門尉(重通 しげみち)の名にちなんでおり、稲葉江の江は、「郷」の字をくずした草書体に由来する。刀の茎(なかご)には、本阿弥家九代の本阿弥光徳が天正13年(1585)12月に、太刀を磨り上げ(すりあげ)たこと、稲葉勘右衛門尉の所持品である旨を金象嵌で記している。その後、「稲葉江」は徳川家康によって買い上げられ、家康の次男である結城秀康、越前松平家(福井藩)、作州松平家(津山藩)へと伝来した。
刀の特徴としては、本来は太刀として作られたものであるが、大磨上(おおすりあげ)によって刀として仕上げられているが、身幅が広く、重ねが厚く、切先が延びるという、豪壮さを残している。
身の長さ78.5cm、反り3.4cmの太刀である。刀身の地肌は小板目肌で、刃文は小乱に足・葉入りの一見、古備前風の太刀であるが、鎌倉初期の備中青江の作である。とくに、この太刀が国宝に指定された理由は、刀身が少しも磨滅せず、打ちおろしのように平肉豊かで、しかも、当初の革着せ黒漆太刀拵が付属していることである。
この太刀は、吉川家第一の宝物で、吉川小次郎友兼が、梶原景時の一族を駿河の狐ヶ崎に討滅して功をたてた太刀として、以後は用いず家宝として保存されてきたもので、その健全さが比類ない訳である。なお、狐ヶ崎の事件は、吾妻鏡(東鑑)の正治2年(1200)1月20日の条に記録されており、この太刀が狐ヶ崎という名物となった理由である。