小桜韋威胴丸 兜・大袖・替袖・頬当・喉輪・臑当付

織田信長の所用と伝えられる胴丸である。胴の高さ36.5㎝、胴廻り114.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ25.5㎝の軽装の鎧である。小札(こざね)は、黒漆を盛り上げて塗った本小札で、小桜模様の染め革を使って毛を返したように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。韋所(かわどころ)には藻・牡丹・獅子を描いた革や藍染めの杉・菖蒲を描いた革などが使われ、萌黄・白・浅黄・紅・紫の5色の色糸で小さな針目を出す伏せ縫いが施されている。金具廻りには小桜鋲が使われ、綿噛(わたかみ=胴を肩から吊す革)に付けられた杏葉(ぎょうよう)には、金メッキの「織田瓜紋」が据えられている。兜は、五十二間総覆輪筋兜(兜鉢のはぎ合わせの部分を金属で覆い、筋状になっている)と言われるもので、臑当なども含めて安土桃山時代の特色を示す優れたものである。

色々威胴丸 広袖付

安芸国(現在の広島県)銀山城主(かなやまじょうしゅ)・武田光和(たけだみつかず)が所用したと伝えられる胴丸。胴の高さ31.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ23.1㎝、胴廻り(脇板)119.7㎝の活動しやすい軽装の鎧で、小札は、黒漆を盛り上げて塗った本小札を白・紅・萌黄・紫の色糸を使って、毛を伏せたように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。金メッキの金具廻りや韋所には、藍染め革や藻・牡丹・獅子が描かれた革、熏革(くすべかわ=松葉の煙でくすべ、地を黒くして白く模様を残した革)などが使われている。黒漆を盛り上げて塗った本小札を色糸で威して作られた壷袖(袂のない袖)が付いている。

藍韋威肩白紅胴丸

胴の高さ32.3㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ20.3㎝、胴廻り(脇板)106.5㎝の室町時代に作られた胴丸(軽装の歩兵用の鎧)。小札(こざね)は黒漆塗りの本小札で、白・紅の色糸や藍染めの革を使って毛を伏せたように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。金メッキの金具廻りや韋所(かわどころ)には、藍染め革や茶染め革、藻・牡丹・獅子が描かれた革などが使われて、萌黄・紫・黄・白の色糸で伏せ縫い(表に小さく針目を出す縫い方)がされている。

鉄黒漆二十二間総覆輪筋兜萌葱糸素懸威𩊱

鉢の高さ14.6㎝、径は前後が24.0㎝、左右が20.0㎝で、楕円形をした「阿古陀形(あこだなり)」という形式の兜。
22枚の台形の鉄板に黒漆を塗り、はぎ合わせの部分を金属で覆って筋状にし、頭頂部の八幡座は5重で、篠垂(しのだれ)という細い金メッキの筋金が前に3条と後ろに2条据えられ、腰には神社等に見られるような斎垣(いがき)がめぐらされている。
眉庇(まびさし)はやや前に出る伏せ眉庇で、その上に三鍬形台があり鍬形が立っている。
しころ(鉢の左右から後方に垂れて首を覆うもの)は萌黄色の糸を使い、糸目を粗くして所々2筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。

室町時代に盛んに行われた特色の著しい作りで、室町時代中期以降に作られたものと思われる。

鉄錆󠄀塗二十八間総覆輪筋兜鉢

現在は錆漆塗りとなっているが、本来は32枚を張り合わせた黒漆塗りの筋兜鉢(はぎ合わせの部分を金属で覆い、筋状にしている)である。
高さ12.2㎝、鉢の径は、前後23.2㎝、左右20.6㎝で、篠垂(しのだれ)という細い金メッキの筋金が前に3条と後ろに2条据えられ、頭頂部の八幡座は金メッキの魚子地(ななこじ=粟粒を並べたように、細かい粒を突起させたもの)に枝菊を高彫りにした円座に小刻みの裏菊と玉縁など5重になっている。
腰には、神社等に見られるような斎垣(いがき)がめぐらされている。南北朝時代から室町時代初期にかけて作られたと推定されている。

鉄錆󠄀地三十六間星兜鉢

表面が酸化して錆びている鉄の板を、鋲ではぎ合わせて作った兜鉢。
全体の形は、前後左右の径がほぼ等しい大円山形(だいえんざんなり)で、高さ10.8㎝、鉢の径は前後が22.6㎝、左右が20.0㎝となっている。星は、1行に16点と腰巻に1点ずつ打たれ、42枚が張られ、前正面ではぎ合わされている。
頭頂部の八幡座や眉庇(まびさし)、篠垂(しのだれ=正面や前後左右の細い筋金)、革毎(しころ=鉢の左右から後方に垂れて、首を覆うもの)などは失われているが、南北朝時代の特色をよく表している。

黒漆矢筈札浅葱糸素懸威腹当

胴の高さ25.8㎝、胴廻り69.2㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ12.7㎝の腹巻よりも簡略化された下級士卒用の防具。
小札(こざね)は、黒漆塗りの革で包まれた矢筈札(やはずざね=弓の弦をうける矢の上端の形をした札)で、浅黄色の糸で威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
草摺の中2段と左右の1段は、糸目を粗くして所々に二筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。

室町時代末期に作られたこの種類の腹当は、残っているものは少なく貴重である。

金銅如来形坐像

この金銅如来形坐像は、その伝来について不明なところもあるが、日本に伝存する高麗時代の仏像として優れた作柄を示す作品である。

この像は、右手を胸前にあげ、左手を左膝上に差し伸べ、ともに第1指と第3指を捻じ、右脚を上に結跏趺坐(けっかふざ)する。肉髻部と地髪部を明確に区別せずにゆるやかに盛り上げた頭部には小粒の螺髪を整然とつくり、角張った大きめの顔面部には、すこしたるみのある髪際線、紐状の大きな耳、上下瞼がふくらんだ切れ目のある眼、太く鋭角的な鼻、厚い口唇などを大きく表現し、頸部に三道をもりあげてあらわす。鐘状を呈する太づくりの体部には通肩に法衣を着け、U字状に広く開いた胸部に裙を締めた紐の結び目をのぞかせ、新羅時代後期以来の伝統的な仏像表現を踏襲している。

地着部周縁に5個の孔があり、像底に底板を張った可能性が強く、かつて像内納入品を納めていたと推測できる。

大きな頭部をやや前方に傾けた形姿や台形状の膝部の表現などから本像の制作は、高麗時代後期(14世紀初期)ごろと考えられる。

優れた鋳造法や明快な表現などは、日本に伝来する30余点の高麗仏の中で佳品の1つとして挙げられ、貴重である。

藍韋威肩櫨紅腹巻

胴の高さ31.0㎝、胴廻り92.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ26.4㎝の、室町時代末期に作られた鎧腹巻。
小札(こざね)は、左右の両端を少しずつ重ねたまま綴り延べた伊予札と本小札で、櫨(はぜ)・紅糸・藍染め革を使って威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
草摺は、糸目を粗くして所々に二筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。
金具廻りや韋所(かわどころ)には、藍染め革や茶染め革のほかに、一見ヒキガエルの背のような外形をした、しわのある蟇肌(ひきはだ)革が使われているのが珍しいと言われている。

紺糸威肩紅腹巻 付 大袖

胴の高さ28.2㎝、胴廻り100.2㎝、草摺(くさずり=胴の下に下がっていて、足の太股を守る部分)の高さ30.0㎝の鎧腹巻。
小札(こざね)は、黒漆を盛り上げて塗った本小札で、紅・紺の色糸を使って、毛を返したように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
腹巻はもともと装束の下に着けるものであったが、この腹巻には黒漆を盛り上げて塗った本小札を紅糸で威した高さ34.2㎝、幅34.3㎝(上)~35.4㎝(下)の大袖が付いている。

室町時代中期の特色豊かな優れたものである。

絹本着色釈迦十六善神像

縦83.8cm、横45.0cm。掛幅装。釈迦如来(しゃかにょらい)を中心に下辺に玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)と深沙大将(じんじゃだいしょう)を配し、左右に善神16尊が立つ。絹地に裏彩色を施した彩色画で、見事な彩色技法と明確な描線で描かれた鎌倉時代末期の制作と推定される優品である。

箱書と寄進状によると岩国藩が高野山より入手して、正徳元年(1711)の再建にあたり寄進した。昭和61年度(1986)に保存修理を行っている。

紙本墨画淡彩湖亭春望図

図の上部には「湖亭春望」と題された七言律詩が書かれており、「天與老雪」の名と「清啓」の朱文方印があるので、賛者は天與清啓(てんよせいけい)であることがわかる。関防印は「暁遠夜鶴」である。

湖亭春望図には印章、落款ともないが、雪舟筆の伝えがあり、天與清啓の賛がある。

賛を賦した天與清啓は、臨済宗大鑑派の禅僧であり、大内盛見(1377~1431、1409~25在京)、大内教弘(1420~65)父子との関係があった。享徳2年(1453)と応仁元年(1467)の二度にわたって遣明使節となっている。二度目の時は正使であり、渡明の一行の中には、別船であるが雪舟もおり親交があった。

天與清啓は、山口市源久寺所蔵の仁保弘有像にも、寛正6年(1465)8月、着賛している。湖亭春望図には、彼が渡航を前に周防に滞在していた時期(寛正6年又は7年の春か)に著賛した可能性がある。

また、狩野探幽(1602~74)により、「雪舟筆」、「自賛」の「山水」と鑑定されている。

湖亭春望図は日本の水墨画を特色づけている、淡く美しい彩色が施されており、製作時期が限定できる山水画としても重要である。

高森城址

高森城は『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)によれば、宝徳元年(1449)ごろ大内氏家臣・岐志四郎左衛門通明(きししろうざえもんみちあき)により築城された。

城は大内氏が安芸へ向かう際の戦略上の拠点となっており、大内氏の滅亡後、周防を支配した毛利氏は高森城に坂新五左衛門(さかしんござえもん)を入れ、山代地方の平定にあたらせた。

城址には、本丸・二の丸・三の丸・郭・付郭・武者走り・空堀・見張り台・出丸の施設が残る。また、南側急崖に造成された四段の郭群は築城当時のものでなく、大内義長の時期か、毛利氏の周防支配の時期(16世紀中頃)に造成されたとみられる。

 

木造地蔵菩薩半跏像

像高66.5㎝(頂上から左足先まで)、頂上~顎14.0㎝、面巾12.0㎝、膝高8.7㎝(右足)、連座高17.5㎝、頭光直径36.0㎝、面奥12.5㎝、張り26.7㎝、台座総高40.5㎝。

ヒノキ材の一本造。頭体部を1材で造り、膝前及び両手、左足先を矧ぎつけている。頭は円頂で、白毫相をあらわす。(白毫は水晶を嵌入)彫眼、耳朶は環とし、三道を刻む。
右手は屈臂して斜め前方にたて、5指を握り、錫杖を執る。左手は屈臂し、掌を仰いで、そこに宝珠を捧持する。法衣を通肩に着け、左足を半跏(踏み下げ)して蓮座上にすわる。

台座の下方は四角で、框があり、その上に敷茄子を置き、その上方に蓮華座を置く。この蓮華の蓮弁は魚鱗葺である。下方の框のまわりに木の根でつくった雲形を置く。

頭光は宝珠輪光で、月輪光の上3か所に宝珠を付す。但し、この頭光及び蓮座の下方は後世の作と考える。

松月庵木造七観音菩薩坐像

松月庵は『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)には、長徳寺本寺古跡松月庵とあり、長徳寺の跡地に建立されたとされる。
七観音は長徳寺に安置されていたものを松月庵に安置し、地元の人々により、手厚く守り続けられてきたものと考えられる。

七観音とは、衆生を救済するために、姿を七種に変える観音で、千手(せんじゅ)観音、馬頭(ばとう)観音、十一面(じゅういちめん)観音・聖(しょう)観音、如意輪(にょいりん)観音、準胝(じゅんでい)観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をさす。

像は中央の仏師により、作られたと推測され、保存状態もよい。おだやかな顔、流れるような衣紋、ふくよかな蓮弁、など室町時代の作品の特徴がよくでている。

阿弥陀如来座像

本覚寺は本郷町にある徳門寺の末寺で、『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)によれば坂新五左衛門(さかしんござえもん)の菩提寺である。

仏像はヒノキの寄木造りで、肉髻(にくけい)、衲衣(のうい=僧尼が身につける袈裟)は墨彩で、肉身部は金箔彩色である。
保存状態は良好で台座がすべてそろっているのも極めて珍しい。

像はふくよかな慈愛に満ちた丸顔で、玉眼や白毫は水晶で造られており、衣文線などから仏体、台座とも、室町時代前期の作と考えられる。

 

薬師如来座像

東林寺の本尊、薬師如来座像は50年に一度開帳される秘仏である。像の右手は施無畏(せむい)印、左手は与願(よがん)印で薬壺(やっこ)を持つ。
像はヒノキの一木造りで、製作の形式から室町時代の作と推定されている。

いく度かの火災をくぐりぬけ、里人の厚い信仰に支えられて、今日に伝存した数少ない中世の仏像として貴重なものである。
次の開帳は2027年である。

随神像

随神像は本来神社の門である随身門の両脇に置かれるもので、俗に矢大臣、左大臣といい、剣を携帯し、矢を背負った衛門(えもん=門を守る兵士)の姿をしている。
随神像があることは、かつては随身門が存在していたことを示している。

これらの像は、ヒノキの一木造りであり、著名な彫刻師の作とは思われないが、桧の一木彫で、鬢(びん=耳際の髪)をもつ像には永享元年(1429)の墨書銘がかろうじて判読できる。
欠落部分が随所に見られるが、顔の相をはじめ、全体的によく整えられて制作されている。

 

狛犬(一対)

狛犬は神社の入口や神殿の前におかれ、悪魔払いや災危防除の役目をしたといわれる。
この狛犬は木製のもので、胴体は一木造りで彫られたもので、尾の部分は枘(ほぞ)が付き、胴体に付された枘穴と合わさるようになっている。
狛犬の底面には墨書があり、貞治5年(1366)に神主教一(かんぬしきょういつ)が願主となって造進したと記載がある。

彫法は素朴であるが制作時期のわかる木製狛犬は少なく、貴重である。

五葉庵木造阿難尊者立像及び木造迦葉尊者立像

阿難尊者立像は像高60.5㎝でヒノキ材の寄木造りである。迦葉尊者立像は像高60.0㎝である。

釈迦如来座像の両脇につかえる阿難尊者立像、迦葉尊者立像は彫法から室町時代の作と考えられる。
釈迦如来座像と制作時期が若干ことなるため、後の時期に一体のものとして付されている。