色々威腹巻 付 負櫃

岩国六代藩主吉川経永(きっかわつねなが)が岩国明珍家の祖である甲冑師明珍又ヱ門宗性に命じて、寛保2年(1740)に製作させた、華美で豪華な甲冑である。

金属類には、繊細で見事な彫刻(浮彫・透彫・毛彫・魚々子)が多く用いられている。この他、漆、糸の染色、布帛といった素材についても上品なものである。

全体的に古式に則ってはいるが、江戸期の明珍派の特色を良く伝え、当世具足的要素を加味し、取付式の弦走革を用いるなど、独創的な手法を用いた甲冑として貴重である。

 

桐・九曜紋蒔絵挾箱 付 目録

大きさは横幅58.1㎝、奥行39.8㎝、高さは箱38.8㎝、蓋7.8㎝である。

挾箱は外出に際し、具足や着替用の衣服などを中に入れ、棒を通して従者にかつがせた箱で、江戸時代には定紋をつけて武家の格式を示した。

造りは印籠造りで、身に比べて蓋が浅く、垂直、水平線の組み合わせにより構成されている器形は整然として、厳正な印象を与えている。各面の対角線には鍍金桐唐草文毛彫金物をはめて、鋭さがいっそう強調され、それが蒔絵と金具の桐・九曜紋と金梨地に松・橘文蒔絵の意匠に和している。

派手な図様を器面全体に描いた蒔絵の技法などから製作期は江戸中期から後期と考えられる。保存状態も良く、加えて吉川家伝来であることも目録から判明している。

紺糸素懸威黒板札菱縫二枚胴具足

江戸時代後期の作で製作者は岩国藩の甲冑師春田家第4代の春田正栄である。特色として、眉庇(まびさし)が微塵青貝に赫銅覆輪の出眉庇であること、前立が鍍金の鍬形及び丸ニ酢漿紋となっていること、吹返し、胴の胸板、胴のうしろの押付板にも丸ニ酢漿紋をつけていること、立挙、衡胴とも上重ねになっていることが看取できる。

全体的には、菱縫いの板が金漆雛で亀甲文様となっている他随所に上級武士が着用したと思われる特色を見ることが出来るほか、全体が製作当時のままで、後世の改変もない、完全な一領である。

元々は家老職の吉川家所有の甲冑で、明治初期に吉香神社に奉納されたものである。漆の剥落等もなく、保存状態はきわめて良好である。

黒韋肩白紅威大袖

この大袖は、射向(いむけ)(左手)側の大袖だけで、馬手(めて)(右手)はない。上下の幅は39㎝と35㎝で、南北朝時代の作である。作りは黒漆塗の革小札と鉄小札を一枚ずつ交互に交えて、赤、白の糸を用いて段々に威(おど)している。

中世の甲冑に付属した大袖は南北朝時代から室町時代にかけて盛んに用いられているが南北朝時代の大袖の残存例は少く貴重である。

刀剣拵付

刀身の長さ69.2㎝。反り1.5㎝。銘文は、表に「神武周防岩国藩青龍軒盛俊造之」、

裏に「文久(四)年甲子正月日」とある。文久4年(1864)に、青龍軒と称し岩国藩の刀工であった岩本清左衛門盛俊(1802-1867)作で、伯耆流居合道の始祖といわれる岩国藩片山家に伝えられてきたものである。また、鐔(つば)の作者片岡忠義は、岩国に住んだ優れた鐔工である。

刀身は、拵(こしらえ)とともに極めて良好な状態で保存されている。刀身、刀鐔(かたなつば)とも傑作で、伝来の由緒正しさと合わせて誠に貴重な存在である。郷土の刀工盛俊の傑作の一口に、同藩の鐔工の傑作が拵につくものは他に存在しないと思われる。

紺糸寄素懸威百二十二間筋兜

この兜は岩国藩家老職であった香川家に伝来するもので、高さ16.5cm、径は前後25.4cm、左右20.9cm。銘文には、「防州住藤原正晨作」とある。銘文にある防州住藤原正晨は春田正晨(はるたまさあき 1657-1738)のことである。正晨は通称を次郎三郎といい、奈良の甲冑師春田正信(はるたまさのぶ)に師事し、のちに、岩国藩の甲冑師春田家の初代となる。

兜は筋兜といわれるもので兜本体を形成する鉄板を接ぎ留める鋲を見せず、鉄板の縁を捩(あお)り立て、接ぎ目を筋状に見せたものである。筋兜の筋は春田派の兜で120間となるものは珍しい。

また、これ程多くの細い筋が入った兜を何の乱れもなく作り上げた技術は高く評価され、美術的価値も高い。

木造三十三体観音像

観音菩薩が世の中の人々を救済するために、様々な姿、形を変えて現れると『法華経』(ほっけきょう)の中にある「観世音菩薩普門品」(かんぜおんぼさつふもんひん)で説かれている。そしてその姿は、楊柳(ようりゅう)、龍頭(りゅうず)、持経(じきょう)、円光(えんこう)、遊戯(ゆげ)、白衣(びゃくえ)、蓮臥(れんが)、滝見(たきみ)、施薬(せやく)、魚籃(ぎょらん)、徳王(とくおう)、水月(すいげつ)、一葉(いちよう)、青頸(しょうきょう)、威徳(いとく)、延命(えんめい)、衆宝(しゅほう)、岩戸(いわと)、能静(のうじょう)、阿耨(あのく)、阿摩提 (あまだい)、葉衣(ようえ)、瑠璃(るり)、多羅尊(たらそん)、蛤蜊(こうり)、六時(ろくじ)、普悲(ふひ)、馬郎婦(めろうふ)、合掌(がっしょう)、一如(いちにょ)、不二(ふに)、持蓮(じれん)、灑水(しゃすい)の三十三様である。

厨子にはこれら三十三の姿に変化した観音像が精巧緻密な造りで納められている。そして、厨子の寸法は縦71㎝、横42㎝である。製作年代は不明であるが作風から江戸時代初期の作とされている。

木造聖観音菩薩座像

ヒノキ材の寄木造で、像高52㎝、台座高48㎝、総高100㎝。蓮華座上に足の甲を交差させ、反対側の足の太ももの上に乗せて座る、結跏趺坐(けっかふざ)というポーズをとり、右手を屈して掌を前にして立て、左手に蓮華を持っている。

『防長社寺由来』では、「一観音堂一宇 但、本尊弘法大師の作の由ニ候、御長壱尺八寸座像」とあり、弘法大師作と伝えているが、技法や作風から江戸時代初期の作と推定される。

鷺神社神楽面

翁(おきな)面、抵牾(もどき)面、鬼(おに)面、姫(ひめ)面の四面で、いずれも鷺神社に江戸時代末期ごろ奉寄進された神楽面である。

作者は、岩国藩の作事組に属する工人で、出目上満(でめじょうまん 本名は福屋弥惣左衛門)といわれ、寛政12年(1800)の作が三面、弘化2年(1845)の作一面と伝えられている。

これらの面は、神楽面として彫刻技術がすぐれており、非凡さが認められる。近世岩国の工人の作であり、保存状態も良好である。

釈迦牟尼如来座像・阿難・迦葉と十六羅漢

本堂の正面に釈迦牟尼如来座像(しゃかむににょらいざぞう)、その両側に釈迦の十大弟子である阿難(アーナンダ)、迦葉(マハーカーシヤパ)の立像、左右の棚には釈迦の弟子のなかで優秀な16人のである大阿羅漢(十六羅漢)の像を配している。

釈迦牟尼如来座像は高さ37㎝、阿難と迦葉の立像は高さ59㎝、十六羅漢像は45~46㎝の大きさであり、台座は岩座となっている。

作者は不明であるが、釈迦如来座像以外の18体は同一人の作で、6色の極彩色が施され、大和絵の流れを受けた江戸時代の手法である。

このような像は、市内では龍雲寺のほか、福田寺(錦町)のほかに安置されている寺院はなく、希少である。

木造力士像(蛙股)

ケヤキ造りで高さ32㎝、幅32㎝、重さ5㎏をはかる。岩国出身の工人、出目上満(でめじょうまん)作で像の背面に作者の墨書銘がある。力士像は梁や桁の上に置かれる部材、蛙股(かえるまた)として作られており、装飾として用いられ、金正院の向拝として掲げられている。金正院は、元々観音堂といい、享和から文化年間(1801~17)に改築が行われ、その際に奉納されたものである。

この像は、特異な意匠を有しており、その彫刻技術は力強さがあり、非凡なものである。作者の出目上満は本名を福屋弥惣左衛門(ふくややそうざえもん)といい、千石原の生まれで藩の作事組に属した工人で弘化2年(1845)に没している。近世岩国の工人の作品として貴重である。

武田軍陣立図屏風

紙本着色の合戦図。八曲半双(右隻)の屏風で縦171.2㎝、横(全長)568.5㎝。

軍学書『甲陽軍鑑』に基づいて、永禄4年(1561)に行われた川中島の合戦の様子を描いた八曲一双のうち、右隻部分の屏風である。17世紀代の作品としては岩国本と紀州本(和歌山県立博物館蔵)の2例のみで、歴史的にも美術的にも価値は高い。

右隻側は上杉側を迎え撃つ武田軍の陣立ての様子を描いている。こうした描写は珍しく、大変、貴重な構図である。

川中島合戦図屏風

紙本着色の合戦図。八曲半双(左隻)の屏風で縦172.2㎝、横(全長)563.9㎝。
軍学書『甲陽軍鑑』に基づいて、永禄4年(1561)に行われた川中島の合戦の様子を描いた八曲一双のうち、左隻部分の屏風である。17世紀代の作品としては岩国本と紀州本(和歌山県立博物館蔵)の2例のみで、歴史的にも美術的にも価値は高い。
左隻側は合戦の様子を描いており、馬にまたがり、白頭巾に陣羽織を着た上杉謙信が太刀を振り下ろし、床几から立って軍配でそれを受け止める武田信玄の一騎打ちの描写などがある。

仙鳥館

仙鳥館(仙鳥御屋形)は、元禄11年(1698)、岩国藩5代藩主吉川広逵(きっかわひろみち)の住居として建設された。同年11月20日、2歳の広逵は母と共に完成した屋形に移居している。

以後、主として、藩主吉川家の子女を養育するとともに、その母親(夫人)が共に生活する建物として利用された。明和5年(1768)から7年にかけて、書院の改築など大規模な改造が行われている。現在の建物は、弘化3年(1846)建築のものであり、既存の建物を解体し、その跡に本建物を建設したされる。その後は大きな改変がなく、江戸時代後期の姿をよくとどめている。江戸時代の大名関連の遺構としても貴重である。

構造は、桁行8間半、梁間5間、木造2階建、入母屋造、棧瓦葺。

広瀬八幡宮神殿及び横町

広瀬八幡宮は、旧広瀬村・野谷村・中ノ瀬村の総鎮守で、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祭神とする。大同2年(807)に豊前国の宇佐八幡宮から勧請を受け、創建されたと伝えられているが由緒沿革などに関する記録や社宝等は火災のため焼失し詳細な事項が判明しない。

神殿は、三社造りで屋根は鉄板葺である。棟札から天保6年(1835)の建立である。手挟・蟇股・支輪(たばさみ・かえるまた・しりん)に装飾彫刻を多用し、妻飾の二重虹梁(こうりょう)は出組斗栱(でぐみときょう)により身舎(もや)側柱筋から二段に持ち出される。

拝殿は、入母屋造で屋根は桟瓦葺である。中央に馬道をとる割拝殿形式で、広瀬八幡宮ではこれを横町と呼んでいる。棟札から弘化4年(1847)の建立である。かつての礼祭の際は、名主が裃に着替え、神事に臨む前の控えの場所として横町は使われた。錦川を挟んで西側の名主と東側の名主各十二人、計二十四人の座が建物内で定められている。

宇佐八幡宮神殿

三間社流造・鉄板葺の建物で、棟札によると弘化元年(1844年)手斧始め(ちょうなはじめ)を行い、16年後の万延元年(1860)清祓(きよはらい)並びに遷宮(せんぐう)の儀式を行っている。

建物の特色として妻飾を虹梁(こうりょう)、両脇に叉首棹(さすさお)を備えた太瓶束(たいへいつか)とし、斗供(ときょう)は平三ッ斗、隅連三ッ斗で全体としては古式を保つが縁は腰組として三手先(みてさき)の挿肘木でうける。また蟇股(かえるまた)・木鼻の絵様、繰形彫刻にはやや稚拙な趣があり、時代相をうかがわせる。庇の繋虹梁が身舎柱上で大斗と組み合って持ち出されている手法は珍しい。正面の飛檐垂木(ひせんたるき)を新材としているが、外に大きな改造がなく、年代の明らかな幕末期の作例として評価できる。

昌明館付属屋及び門

昌明館は寛政5年(1793)に七代藩主吉川経倫(きっかわつねとも)の隠居所として建造され、経倫の死後は八代藩主経忠(つねただ)の夫人喬松院(きょうしょういん 柏原藩主織田信憑の次女悌 てい)が居住した。

明治に入ると一時、岩国県庁が置かれた。その後、吉川家の家職を司る用達所が設けられ、近代吉川家の岩国における拠点となっている。

敷地内の建物群は解かれて現在は吉川史料館の敷地となっているが、長屋2棟と門が現存する。長屋は現在までに幾度かの改変をうけているがその外観は当時の姿をよくとどめている。

構造は、桁行7間、梁行2間、入母屋造、出桁造、両袖瓦葺。東側庇付き、北端2間中二階付、南端東側2間に下屋付きである。