渡辺飛騨守は本名を渡辺長(わたなべはじめ)といい、毛利元就、輝元に仕えた武将である。天文24年(1555)の厳島合戦のほか、永禄4年(1561)の第四次門司城の戦いなどに従軍し活躍した。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いのあと、周防国に移り、広瀬村、湯野村(現 周南市)、高泊村(現 山陽小野田市)で計2923石4斗の地を与えられ、広瀬村の朝霞城(あさがすみじょう)を居城とした。慶長17年(1612)2月24日死去、79歳。妻は元和元年(1615)死去。長子は元(もと)で五郎右衛門と称していたが、後に土佐守を賜った。元和4年(1618)7月12日死亡。67歳。
宝篋印塔は渡辺飛騨守(長)と夫人、子の元の3基である。
渡辺飛騨守は本名を渡辺長(わたなべはじめ)といい、毛利元就、輝元に仕えた武将である。天文24年(1555)の厳島合戦のほか、永禄4年(1561)の第四次門司城の戦いなどに従軍し活躍した。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いのあと、周防国に移り、広瀬村、湯野村(現 周南市)、高泊村(現 山陽小野田市)で計2923石4斗の地を与えられ、広瀬村の朝霞城(あさがすみじょう)を居城とした。慶長17年(1612)2月24日死去、79歳。妻は元和元年(1615)死去。長子は元(もと)で五郎右衛門と称していたが、後に土佐守を賜った。元和4年(1618)7月12日死亡。67歳。
宝篋印塔は渡辺飛騨守(長)と夫人、子の元の3基である。